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● 養源院(ようげんいん)

数奇な運命をたどった、浅井、豊臣、徳川が眠る寺


| 養源院について| 養源院の歩き方| 基本情報・アクセス

 

 

||| 養源院について |||

 

養源院豊臣秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した寺。一度は焼失したが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江(おごう・お江与《おえよ》)の方(後の崇源院)の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興された。以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。

本堂の廊下の天井は有名な「血天井」。俵屋宗達が描いた襖絵「松図」や、白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵(重要文化財)と共に、慶長5年(1600年)8月1日に伏見城で自刃した徳川家の家臣を慰めている。

 

 

 

打出の小槌「養源院の桃山の印」

 

落雷により焼失した養源院を、夫・2代将軍徳川秀忠が崇源院の願いを受けて再建。養源院の創建とほぼ同時期に建築された伏見城の「中の御殿」からの移築であった。「中の御殿」は、秀吉が信仰していた大聖歓喜天(男女間の悩みを解決してくださる神様・お聖天さん)を安置し、秀吉の修養の場であったという。

再建された時期は、徳川秀忠と崇源院との娘・徳川和子(後の東福門院)が、後水尾天皇に入内(元和6年・1620年)した翌年。その後の養源院は、東福門院の要請で兄の3代将軍家光により守られ、歴代京都所司代のお役目に引き継がれれていく。豊臣家に建てられ、徳川家の菩提寺になるという、不思議な運命を背負うことになる。

「養源院の桃山の印」という寺伝がある。養源院が発行した証書の中でも「桃山の印」が押印されているものは、要求通りに幕府から資財を調達できた。「桃山の印」は、まるで振れば小判が現れる「打出の小槌」のごとき力を持っていたのだ。「お寺の修繕に必要」と記して幕府に提出すると、直ちに必要なだけ資金が用意されたという。現存する文書により、当時の様子を確認することができる。

特別な立場にあった江戸時代の養源院は、他の寺院とは異なり、超然としていた。一般の人は参拝できず、将軍家や大大名という、高貴な身分の人だけに参拝が許されていた。誰もが拝観できるようになったのは明治時代に入ってからのことである。

 

 

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||| 養源院の歩き方 |||

 

大画家・俵屋宗達の出世作 
杉戸絵「唐獅子」にみる“天才の仕事”

 

俵屋宗達の杉戸本堂には、俵屋宗達が描いた襖絵「松図十二面」や、白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵があり、すべて重要文化財に指定されている。俵屋宗達は、屏風絵はいくつか残しているが、襖絵は唯一。ほとんど門外不出の杉戸絵と共に、養源院でしか見られない貴重なもの。

当時、寺社の襖絵は狩野派の絵師が描くことが多かった。養源院にも、伏見城から移築された牡丹の間などに、狩野山楽の牡丹の折枝の襖絵などがある。だが杉戸絵と襖絵の絵師に急遽選ばれたのは、当時、無名に近かった俵屋宗達であった。扇絵職人として細々と絵を描き、本阿弥光悦にかわいがられていた俵屋宗達は、養源院に描いた杉戸絵で世に名を知らしめる。朝廷から「法橋」の位を与えられ、大絵師としての第一歩を踏み出すこととになった。養源院の杉戸絵は、俵屋宗達の原点であり出世作だといえる。

表現の奇抜さでも知られる杉戸絵は現代でも好評で、中学・高校の教科書にも採用され、よく知られている。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんも「天才の仕事」と褒めているほど。

杉戸絵の題材となった「白象」「唐獅子」は、釈迦の脇持仏である普賢菩薩、文殊菩薩の乗り物。俵屋宗達は、「白象」「唐獅子」を描くことで、非業の死を遂げた徳川家家臣の霊をなぐさめるとともに、極楽に運び導こうとする動的でリアルな絵を完成させ、“時代を超えた絵”を残している。

 

 

 

380余名の“血”が染み込んだ悲しい天井

 

「血天井」は、血の染み込んだ板で作った天井のこと。伏見城で亡くなった徳川家の家臣、380余名の冥福を祈るために作られたという、悲しい背景を持っている。

関ヶ原の戦いの直前、鳥居元忠という武将が、伏見城の留守居を任された。慶長5年7月20日、鳥居を筆頭に約2000名の徳川軍がいる伏見城へ、豊臣方の武将・石田三成が率いる4万の軍勢が攻撃を開始。10日もの間にわたり昼夜を分かたず攻め続けた。8月1日、必死の抗戦も空しく力尽きた鳥居元忠ら380余名は、「中の御殿」に集まって切腹。

しかし鳥居らの亡骸(なきがら)は、関ヶ原の戦いの戦後処理が終わるまで、2ヶ月ほど伏見城に放置されていた。この間に、血痕や体のあとが床板に染み付き、洗っても削っても取れなくなってしまった。その板を外し、寺の天井に使ったものが「血天井」と呼ばれている。

 

 

 

崇源院と徳川秀忠の位牌に隠された、驚くべき秘密とは?

 

養源院の再建者・崇源院と夫の2代将軍徳川秀忠の位牌には、「菊」「葵」「桐」の3つの紋が刻まれている。

菊は皇室、葵は徳川家、桐は豊臣家を象徴する紋。微妙な関係にある3つの紋が並ぶ位牌は、日本中探してもほかには見つからない。徳川秀忠の子・和子が、後水尾天皇に入内後、東福門院となった時代には、紫衣事件(寛永6年・1627年)で幕府と天皇家の間がギクシャクとなり、夫である後水尾天皇が突然の譲位をしてしまう。

3つの家紋が並ぶ位牌には、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った、東福門院の切なる気持ちが現れているのかもしれない。位牌をよく目を凝らして確認して、秘密や歴史的背景に思いを馳せてみては。

 

 

 

江戸時代の名作事奉行で茶の宗匠でもあった
小堀遠州の庭園

 

小堀遠州作の庭園養源院の庭は、四季折々の木々によって季節ごとの色に染め分けられている。作庭は、父親が浅井家・豊臣家に仕えた小堀遠州守政一。

「都林泉名勝図会」にも紹介され、以前は“遠州好み”の茶室があったことが分っている。近世の代表的な大名茶人の松平不昧が蒐集した「起こし絵図」の中に、「囲建地割大仏養源院二有之小堀遠州好」と題した図がある。四畳に大目の点前座を添えた、いかにも遠州好みの代表的な平面となっている。

春は、本堂前にこぼれんばかりの紅八重枝垂桜が見事。夏は、目に鮮やかな百日紅(さるすべり)がたわわに咲き誇る。秋は、参道を大きな紅葉が、山内全体を染め上げていく。冬は、白・紅・薄紅色の山茶花(さざんか)が、賑わいを添える。

伏見城から移された秀吉お手植えの山桃の木が400年を経て、雄大な姿で山内を見守っている。

 

 

 

音を立てずには歩けない名工左甚五郎の鴬張廊下

 

本堂の廊下は、名工左甚五郎による鶯張廊下。そろりと歩くほど音が出る。実際に、試してみては。

 

 


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||| 基本情報・アクセス |||

 

養源院(ようげんいん)

075-561-3887

京都市東山区三十三間堂廻り町

 

拝観時間 9:00〜16:00
定休日 1月21日、5月21日、9月21日 13:00〜15:00
拝観料 500円

 

駐車場 あり

 



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