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● 蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)

千一体の観音様が並ぶ、荘厳な寺院


蓮華王院 三十三間堂について蓮華王院 三十三間堂の歩き方基本情報・アクセス

 

 

||| 蓮華王院 三十三間堂について |||

 

蓮華王院三十三間堂の名で知られるが、正式には蓮華王院といい、現在は妙法院門跡が管理している。後白河法皇の法住寺殿の一画に平清盛が建立したのがはじまりで、一度焼失しているが、文永3(1266)年に現在の本堂が再建された。

鎌倉時代の仏師、湛慶が手がけた木造千手観音坐像、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったとも言われる木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像が国宝に指定され、左右に合わせて千体並ぶ千手観音立像、南大門、太閤塀は重要文化財に指定されている。

 

 

 

 

東山の地で不動を貫く「蓮華王院」

一度の消失はあったものの、再建された文永3年(鎌倉時代)から変わらず同じ場所、同じ建物を維持し続ける不動の寺「蓮華王院」。

豊臣秀吉の覇権から徳川家の支配する江戸時代へと移り変わる際、権力闘争の舞台ともなった京都・東山の地では寺社の移転や寺名の変更は当たり前に行われていた。また、明治期には廃仏毀釈も行われ、多くの寺が廃寺にされている。

激変する歴史を乗り越え、東山の地で不動を貫いた寺社は珍しい。同じ場所から京都の移り変わりを見続けた蓮華王院は、東山を語る上では欠かせない歴史の証人ともいえるだろう。

 

 

 

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||| 蓮華王院 三十三間堂の歩き方 |||

 

極彩色の絵にも描けない美しさ

建立当時、三十三間堂は朱塗りで、内部も極彩色に彩られていた。しかし年月とともに退色が進み、今の姿になったとか。

千手観音の眷属である二十八部衆も、昔は美しい色がついていた。阿修羅王、摩醯首羅王(大自在天)などの口の部分を良く見ると、彩色の片鱗を見つけることができる。

 

 

 

めったに千体揃わない!? 千体千手観音立像

千体の千手観音立像が有名な三十三間堂だが、実は千体揃って見られることはほとんどない。常に修復や美術館への貸し出しが行われているため、すべて揃うのは特別イベントの時のみである。毎年約20体が修復にまわされており、不在のときには当該位置に「現在修復中」の看板が置かれている。

 

 

 

観音様が千体必要なワケって?

インドでは「1000」という数字が無限を表すとされており、千体の観音様が「功徳が無限である」ことを示している。三十三間堂には千手観音坐像を含めて全部で千一体の観音様がおられる。「千」に「一」を加えた千一という数は、無限を超えたさらに先があり、無限に多大であるとの意味があり、「無量」のお力を持つことを表現している。

 

 

 

ひっそりたたずむ千二体目の観音様

実は、三十三間堂におられる観音様は千一体ではない。千手観音坐像の裏側に、ひっそりと千二体目の観音様がおられるのだ。ほかの観音様と違い、一体だけ室町時代に作られており、かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていた。千二体にはそれぞれ違った名前がつけられているが、千二体目の観音様は「行像尊」の名前で呼ばれている。

 

 

 

最古、最高の耐震構造で地震も安心!?

平安時代に建立された三十三間堂。地震で倒壊しないようにしっかりとした耐震構造を持っている。地震が起こればお堂が大きく揺れて衝撃を吸収する。

基礎地盤には、砂と粘土を層状に積んで地震時の地下震動を吸収する「版築(はんちく)」を用い、堂内の屋台骨には、柱間を2本の梁でつなぐ「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」を採用した。 柱や長押、梁には“揺れること”を前提にした設計が取り入れられ、土壁面積を極力小さくして「羽目板」形式にするなどの工夫が施されている。このような耐震構造の建物は、日本では他に類を見ない。

 

 

 

正しい読み方は「さんじゅうさんまどう」?

元は「さんじゅうさんげんどう」ではなく「さんじゅうさんまどう」と呼ばれていたという説もある。

尺貫法の「間(けん)」から名前が付けられているという間違った俗説が広まり、お堂の全長が「33間(約60m)」だと誤解されることも多いが、実際は尺貫法とは関係なく、千手観音像をおまつりしている場所の柱間が33間(ま)であるところからその名前がついたようだ。

正式名称の「蓮華王院」とは、千手観音は胎蔵界曼荼羅の蓮華部の中で最尊とされているので、蓮華王大悲観自在と称され、それ故に後白河上皇は、このお堂を「蓮華王院」と命名された。

 

 

 

三十三間堂で、結婚式ができる?

以前から同院関係者は結婚式を挙げることができたが、最近は一般の人も結婚式を行えるようになった。

結婚式では、堂内に並ぶ千一体の千手観音の前で念珠を交換し、参拝客にも祝ってもらう。年に10組ほどが結婚式を行っているので、日柄の良い日に訪れると、花嫁の姿を見ることができるかもしれない。結婚式は「友の会」(年会費2000円)会員限定。

 

 

 

個性豊かな家来28像が、観音様をお守りする!

千一体の観音像、風神雷神のほか、観音様の眷属(家来)にあたる那羅延堅固や大弁功徳天など28の神々を象った「二十八部衆像」も本堂にならんでいる。二十八部衆像も鎌倉時代に作られており、目には水晶が使われるなど、時代の特徴がよく現れている。

二十八部衆の中で特徴的なのは「婆藪仙人像」。老人の姿がリアルに再現された像は珍しく、資料的価値も高い。頭巾は、取り外しできる構造になっている。

 

 

 

夜泣きが治る不思議な泉

夜泣泉三十三間堂の境内にある「夜泣泉」。お地蔵さんによだれかけを奉納祈願し、一週間後よだれかけを祈願主が持って帰り、子どもの枕の下に敷くと「夜泣き」が治るといわれている。

「夜泣泉」のいわれは、水の湧き出す音が人の“すすり泣き”に似ていたことから。いつしか、子どもの「夜泣き封じ」に効果があるといわれるようになり、かたわらに地蔵尊も奉られ、現在の話へと繋がっている。

 

 

 

 

100万本もの“矢”が射られた寺

垂木に突き刺さった矢三十三間堂で行われた通し矢。本殿西側の120メートルも続く長い廊下を利用して行われた。一昼夜かけて弓を射続け、何本が的に当たったかを競ったという。多くの人が通し矢に挑んだため、寺内にはさまざまな通し矢の痕跡が今も残っている。

堂南側の柱や壁に残るいくつかの穴は、弓の弦を張り替えるときにできた穴。西側の柱は片面が鉄板で覆われている。これは大量の射損じた矢があたる位置であったため、補強として徳川家光が作らせたもの。

よく見ると喪堂縁側中央付近の垂木(たるき・棟木などの上に斜めに掛けられる斜材)に1本の矢が刺さっている。これは、当時のものではなく、昭和になってから刺さったもの。イベントとして通し矢を射た時に、射損じて刺さったもののようだ。

 

 

 

新記録を目指すなら、弓を射るのは6秒間に1本!

通し矢の基本姿勢は座った状態で少し上に向かって射る。立ったまま射ると、天井に当たって遠くまで飛ばないためだ。上に向かって射ると飛距離は出るが、天井に当たる可能性も高くなる。

一昼夜のうちに、どれだけ多くの矢が的に当たるかを競う通し矢。当初は遊びで始められたが、次第に藩ごとの勝負の様相を呈し始め、とくに弓矢を得意とした尾州・紀州の両藩はライバルとして激しく争った。藩の威信を賭けての対決では勝負に負けて切腹した人もいたという。

総矢数や通し矢(命中)は「矢数帳」に記載されて、寺内に残された。尾州の星野勘左衛門が総矢数10542本、通し矢8000本との記録がある。また紀州藩士の和佐大八郎は、総矢数13053本、通し矢8133本の大記録を打ち立てた。このとき和佐大八郎は18歳だったという。

もしも和佐大八郎の記録を抜くなら、6秒間に1本の矢を24時間射続ける必要がある。記録を塗り替えるどころか、このペースで射ることさえ難しいのではないだろうか。

「矢継ぎ早」という言葉があるが、通し矢の際に、素早く次々と矢を射ったことが由来となってできた言葉だと言われている。

 

 

 

川に沈んだ骸骨が頭痛の原因という話の真偽は……

三十三間堂で行われる、頭痛封じの「楊枝(やなぎ)のお加持」は、後白河法皇がひどい頭痛持ちだったことに由来している。
言い伝えによると、川に沈んだ法皇の前世の骸骨から柳の木が生えており、柳が風に揺れて骸骨が揺れる度に頭痛が起こっているという。川の底を探すと、言われた場所から骸骨が出てきた。その骸骨を観音様の頭部に収め、生えていた柳の木を三十三間堂の棟木に使用した所、後白河法皇の頭痛も平癒したという。

実際には観音様の中に骸骨が埋められているという事実は無いそうだが、頭痛封じの「楊枝のお加持」は、現在も行われている。

「楊枝のお加持」は千手陀羅尼を称えながら、参拝者の頭に7日間加持された浄水を柳の枝でそそぐ。千手観音の楊枝手は悪疫を退散させるという信仰から柳の枝が使われているらしい。堂内では柳入りの頭痛封じのお守りも置かれている。

 

 

 

宮本武蔵の果し合いの地!

三十三間堂の南側にあたる長い縁側は、吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として有名。

実際の決闘場所は「京都洛外」としか伝えられておらず、本当はどこで行われたのかはわからないが、100メートル以上の長い廊下を走った姿を想像しつつ、この場で果し合いをしたと考えるのも魅力的ではないだろうか。

 

 


太閤さんが寄進した「太閤塀」

境内南端には、南大門と豊臣秀吉が寄進した築地塀がある。通称「太閤塀」と呼ばれる塀は、桃山時代に作られたもの。桃山文化の影響を色濃く残しているほか、瓦には豊臣家の家紋である「五七ノ桐」も見られる。

 


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||| 基本情報・アクセス |||

 

蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)

075-561-0467
京都府京都市東山区三十三間堂廻町657

 

拝観時間 8:00〜17:00(11月16日〜3月は9:00〜16:00)
     *受付終了は、閉門30分前。
拝観料 600円(高校中学400円、子供300円)

駐車場 あり


http://sanjusangendo.jp/



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