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● 法住寺(ほうじゅうじ)

後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺


| 法住寺について| 法住寺の歩き方| 基本情報・アクセス

 

 

||| 法住寺について |||

 

法住寺平安時代中期に藤原為光によって創設された天台宗の寺。かつて大きな寺領を誇る「法住寺殿」があった。法住寺殿は、後白河法皇が御所を作ると共に、自分の死後を守る墓を敷地内に造営したもの。墓に対峙するように蓮華王院(三十三間堂)を、御所を守る新日吉神宮・熊野神社を移し、政務をする政庁までもを含んでいた。年月を経て法住寺殿はその名前や所管を変えたが、法住寺にちなみ、その名を残すために「法住寺」が生まれた。

 

元禄期には大石内蔵助が参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造が安置されているなど、忠臣蔵縁の寺としても知られている。

 

 

 

 

 

 

2006年に改修された新本堂

万華鏡のような構造を持つ、輝くお堂。本堂は、2006年に改修されたばかり。ケヤキやヒノキを用いた壁の一部にガラス素材の棒を通すことで、本堂内に陽光が差し込む。時間や太陽の角度で光の雰囲気が変わる、万華鏡のような構造が「輝くお堂」を作り出す。

 

光のひとつひとつが「仏」をあらわすと同時に「星」を表現しており、宇宙の中に存在しているとのイメージを反映させているとか。

 

 

 

 

 

 

 

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||| 法住寺の歩き方 |||

 

かつての「法住寺殿」をしのぶ「法住寺」

木曾義仲に襲われた後は六条西洞院御所に住んでいた後白河法皇だが、66歳で崩御すると法住寺殿内の法華堂に葬られた。明治時代まで法住寺は法華堂を守ってきたが、明治維新以降は、後白河天皇陵は宮内省の所管に移った。そのため「大興徳院」という寺名で陵墓とは別の境域を有することになった。昭和30年に「法住寺」の名前を伝えるため、「大興徳院」から「法住寺」へと復称された。

 

後白河法皇の寺にもかかわらず、内部には法皇の遺体や像もない状態が続いた。崩御800年後に作られたのが、法華堂にあるのと同じ大きさ、形の法皇像。現在は命日の5月3日をはさんだ、5月1日〜7日に公開されている。

 

 

 

三十三間堂は法住寺の中にあった!?

三十三間堂は、元々は法住寺殿内のお堂のひとつとして造営された。後白河法皇が住んでいたのは、現在の法住寺の位置であったため、千体の観音様を拝む場所として最もふさわしいのは、法住寺や法華堂の位置からだという。

 

法華堂から三十三間堂の方向に見る朝の風景や夕日は非常に美しいため、後白河法皇も朝夕の景色を楽しみながら、観音様を拝んだのかもしれない。朝や夕方に訪れた際は、三十三間堂の方を眺めてみてはいかがだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

護摩法要の煤で描く不動明王像

煩悩を焼き払う炎「迦楼羅焔(カルラえん)」を背負う不動明王を祀る法住寺では、護摩法要が行われる。本堂の外にある、石や砂を配した枯山水風庭園風のスペースは、護摩法要を行う場所。また本堂の天井にも、煤で真っ黒になった部分がある。

 

本堂内には、京都出身の版画家・木田安彦さんが護摩の煤を使って古木に刷った、不動明王の版画が飾られている。

 

 

 

上皇を守った「身代わり不動尊像」

法住寺の本尊・不動明王像は「身代わり不動尊像」とも呼ばれている。法住寺殿が木曾義仲の焼き討ちに合った際、院の御所に攻め入った義仲の矢は当時の天台座主に当たった。天台座主のおかげで法皇が難を逃れたことから「身代わり不動尊像」と呼ばれることになったという。

 

不動明王像は内陣と呼ばれる格子の中に安置されており、普段は格子ごしにその姿を見ることができる。毎月28日だけは格子が上げられた状態で公開される。

 

 

忠臣蔵ファンには見逃せない、大石内蔵助祈願の寺

大石内蔵助をはじめとする四十七士の像赤穂退去後、大石内蔵助は家族とともに京都山科に隠棲していた。山科に住んでいた際、法住寺に立ち寄り不動明王に討ち入りの成功を祈願したと言われている。その縁から、寺内には四十七士の小木像が安置されている。また、内蔵助の菩提寺から寄進された陶器像も見ることができる。

 

四十七士像は寄木細工で作られ、漆や螺鈿で飾られている。袴の模様もすべて違うなど、細部にまでこだわりが見られるので、顔や服装などじっくり見比べるのも楽しいかもしれない。

 

毎年12月14日の討ち入りの日には「義士会法要」が開催され、法要、献茶式の後、舞妓さんのお点前によるお茶会が行われるほか、参拝者に討入りそばの接待もある。「義士会法要」の日のみならず、普段から義士を愛する人々が供養に訪れる。

 

 

 

住職が伝える“今様歌謡”

歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を編むなど、今様歌謡を愛した後白河法皇。しかし、歌詞は残っているものの節(曲)は残っていない。そこで、住職が独自に節をつけて歌っている。現在は10曲くらい完成しているとか。

 

今様は、空に澄み渡るような高い声で歌うもの。しかし、後白河法皇が生きていた当時、男性は低い声で歌うものとされ、高い声は下品だと言われた。それでも法皇は今様を愛し、歌い続けたため、3度も喉を潰したとの話も伝わる。

 

法住寺では、拝観料を納めると寺内を解説付きで案内してくれる。その際、希望者には今様歌謡を歌ってくれる。また悩み相談なども積極的に行っており、住職と話をしに通う人も多い。

 

 

 

そばを食べる不思議な木像

法住寺に安置された親鸞聖人の木像。

 

親鸞が28歳で、比叡山で「範宴」という名で修行していた頃。範宴は、仲間にしられないように留守番役の自分の姿を彫って、毎夜山を下って烏丸六角にある「六角堂」へお参りし、明け方に戻る、百度まいりをしていた。毎夜寺を抜け出す範宴に気付いた師の慈鎮和尚は、ある夜門下の弟子を呼び集め、一人一人の名前を呼び上げ、そばを振る舞った。範宴も返事し、そばを食べたという。

 

寺内にいなかった範宴が山に戻り、話を聞いて首をかしげていると、一人が範宴が作った坐像の口にそばがついているのを発見。範宴が彫った木像が、身代わりを務めてくれたのだ。この木像は「親鸞のそば食い木像」として語り継がれている。

 

 

 

長谷川町子さんも愛した寺

生前『サザエさん』の作者である長谷川町子さんが訪れ、先代住職とお話をしていた縁で、長谷川町子さんの遺骨は法住寺に安置されている。「静かでいいところ」だと好んだという寺で、今も静かに眠っている。サザエさんやタラちゃん、ワカメちゃんなど、直筆のイラストも飾られている。

 

 

 

 

菊のご紋に“葉っぱ”が生えた

正面の門は、昭和天皇即位時に作られたもの。中央に三巴を配した菊のご紋が刻まれているが、「もったいない」との考えから、菊の紋に2枚の葉っぱが生えたものを使用している。

 


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||| 基本情報・アクセス |||

 

法住寺(ほうじゅうじ)

075-561-4137

京都市東山区三十三間堂廻り町655

 

拝観時間 6:00〜17:00

定休日 なし

拝観料 500円(案内冊子つき)
※ご希望の方には、別途500円でお抹茶とお菓子をご用意致します。

写経・納経料と拝観料 1,500円

精進料理(昼食のみ) 3,000円
※木・金・土・日曜日、午前11時より。2名以上で要事前予約。

駐車場 あり

 

※第3日曜日には写経会を開催



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