TOP > 東山の成り立ち


● 京都にあって独自の歴史を歩んだ東山

東山は、京都の中でも独特の風情や歴史を持った地区。古くから京都の歴史や文化の要所だったこともあり、京都を象徴する地域であるともいえる。

 

天皇家や豊臣家、徳川家など、時の権力者と深いかかわりのある寺社や、信仰の中心地も数多く残されている。歴史の移り変わりや、度々起こる天災の犠牲になるなど、運命に翻弄された人や寺社もあるなど、ドラマチックな歴史や伝説が数多く存在している。

 






 

 

歌にも詠まれた、雄大な自然

東山区は、京都市東部にある、東山連峰と鴨川にはさまれた地域。鴨川から東山連峰に向かって緩やかに傾斜した土地は山林などの緑に囲まれ、豊かな自然に恵まれた市街地が南北に細長く広がっている。

 

この東山の姿を、松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪が「布団着て寝たる姿や東山」(『枕屏風』)と詠んだ。夕暮れの京都の街から眺めた、東山連峰のなだらかな山に白い雪が残っている様子を表現したものと言われている。




東山の歴史は、平安時代以前からはじまる

古い歴史のある東山地域は、平安建都(794年)以前から開けた場所だった。

 

「八坂の塔」で知られる法観寺は、平安京遷都以前からあったとみられ、古代朝鮮などから渡来した氏族・八坂氏の寺として建てられたという説が有力。

 

八坂氏は強い力を持つ豪族で、八坂神社も八坂氏にちなんだものという。




貴族が活躍した華やかな時代

平安時代に入ると、七条には後白河法皇の宮廷(御所)である広大な法住寺殿が、六波羅(五条大路から七条大路一帯)には平家一族の邸宅が造られた。三十三間堂の名前で知られる蓮華王院は、後白河法皇の命令で平清盛が法住寺殿の一画に造り、贈呈した寺院である。

 

一方で、京都の街が一望できる景色のよい東山連峰は「祖先を供養する土地」との性格も持ちはじめた。




武士の集まる“政治拠点”へと変化

時代の移り変わりとともに東山も姿を変えていく。

 

武士が力を持つようになった鎌倉時代には、幕府が京都に出先機関「六波羅探題」を置く。朝廷の監視と、西日本にいる武士を統括する重要な政治拠点となった。

 

桃山時代に入ると、豊臣秀吉が奈良の東大寺大仏に勝るとも劣らない大仏を、京の都に造ろうと計画して、方広寺を建立。さらに東山が発展することになった。秀吉は東山に対して特別な思い入れがあったようで、秀吉と関わりのある寺社が多く建てられている。




東山の町並みは 江戸時代に完成していた

江戸(東京)に政治の中心地が移ると、東山は宗教や政治の拠点としてだけではなく、住宅地としても注目されるようになる。また、柏屋(柏原家)という豪商も現れ、地域の発展に影響を与えた。柏屋の屋敷は、現在も「東遺芳館」として残っている。

 

同じ時代には、名所を訪れる見物客を相手にした繁華街もできはじめた。東山の趣ある街並は、この時代にほぼ完成している。




近代日本を象徴する、新しい文化地域・東山へ

明治30年(1897年)、西洋化志向が進む中、京都を中心に分布する文化財を保護するため、帝国京都博物館(現在の国立京都博物館)が開館。東山は文化的な面で、ますます重要なポジションを占めることになる。

 

明治32年(1899年)、村井吉兵衛が日本最初のたばこ製造工場を馬町に造る。この工場では2000人以上の労働者が働いていたという。たばこ事業の成功で大実業家となった村井吉兵衛は、国内外の賓客をもてなす迎賓館として「長楽館」を建設。ルネサンス様式を基調とした美しい洋館は、近代日本を象徴する建物として愛された。

 

明治43年(1910年)には京阪電鉄が開通。大阪・天満橋〜京都・五条間が結ばれ、鴨川沿いの地域だけでなく、京都の街が大きく様変わりする要因となった。