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● ガイドブックからは読み取れない、東山ならではの歩き方

東山の寺社仏閣の中には、深いつながりを持つものも少なくない。

また、今はもう無くなってしまった寺社や施設、地域に伝わる意外な逸話など、ふだんはあまりスポットのあたらないウラガワから、東山に迫ってみよう。

 

寺社を作り、守った人々の関係、それぞれの寺社の歴史から生まれた、隠れた“共通点”や“関係”が明らかになると、東山の景色も少し違って見えるかもしれない。

 

 

 

東山に今も残る数多の龍神様

 

水を司る神であり、「火事避け」「悪霊退散」にもパワーを発揮する龍。川や地下水脈が多く美しい水に恵まれた京都ではそこかしこでに龍神様の姿が見える。東山界隈も例外ではなくさまざまなカタチの龍を見ることができる。

 

瀧尾神社で全長8mの立派な姿を見せるのは、無垢材で仕上げられた、寄木の龍。立体感や躍動感を感じる彫刻は一見の価値あり。拝殿に上り、間近で龍の姿が見られるのも特徴だ。

 

天井画にも龍が描かれる。東福寺本堂の天井、泉涌寺仏殿の天井には大きな龍が描かれている。東福寺の天井に踊るのは、墨一色で描かれた大きな龍。堂本印象作の龍は3月14日〜16日の3日間に行われる特別公開で見ることができる。泉涌寺仏殿の鏡天井には巨大な蟠龍(ばんりゅう・とぐろを巻いた龍のこと)が描かれている。狩野探幽筆の龍図は畳8畳もの大きさだ。

 

東福寺の塔頭・龍吟庵にも巨大な龍が姿を見せる。龍吟庵の西庭「龍門の庭」は庭自体を龍に見立てているのだ。龍が海から顔を出し、黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現している。

 

東山界隈に大きな姿を見せる龍神の姿、探しに行ってはいかがだろうか。

 

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神社仏閣で楽しむ“珍獣探索”アドベンチャー

 

東山界隈の寺社仏閣で見られるさまざまな動物たち。実在する動物のほか、神獣や神様の御使いなど種類も豊富だ。アドベンチャーツアー気分で“珍獣探索”をするのも楽しそう。

 

最初のスポットは新日吉神宮の本殿脇。金網に入れられた狛犬ならぬ「神猿(まさる)」が迎えてくれる。猿の姿をした神の御使いは、夜な夜な動き出して悪さをするために金網に捕らえられたという。

 

続いては豊国神社へ。唐門には、伝説の彫刻職人「左甚五郎」作とされる彫刻がほどこされている。「鯉の滝登り」を示す鯉の彫刻も見事だが、珍しいのは正面上部の鶴。目が無いため「目無し鶴」と呼ばれる鶴は、名人・左甚五郎の彫刻の出来が良すぎるからだという。鶴に目を入れると魂が宿って飛んでいってしまうため、苦肉の策で目のない鶴が彫られている。

 

養源院にも行ってみよう。本堂には俵屋宗達が描いた白象、唐獅子、麒麟の杉戸絵がある。大胆な構図と迫力のある筆致。時を忘れて見入る人も多いようだ。

 

最後に訪れるのは、数々の動物・霊獣が見られる瀧尾神社。社内のいたるところに九山新太郎作の彫刻が見られる。回廊には十二支、水鳥や阿吽の龍、獏、鶴、鳳凰、尾長鳥、霊獣である犀や麒麟の姿もある。すべて裏側も丁寧に作りこまれているので、裏に回れる場所では、ぜひ裏側の姿や表情も見て欲しい。本殿の正面を守る霊獣は、京奈には他に例のない珍しいもの。雲上にあり、顔は鳳凰、四足、体にはウロコがあり、鳥のような爪を持つ、日本唯一かもしれない霊獣も見逃せない。

 

瀧尾神社本殿の屋根も見上げてみよう。伏見人形で作られた猿の姿が目に留まるはず。かつて神社周辺に松林があり、神猿が住むといわれていたことから作られた猿の人形。網に入れられており少し見難いが、ユーモラスな姿は必見。

 

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秀吉の残した夢の跡

東山周辺に多数残された豊臣秀吉の足跡。太閤さんのファンのみならず、立身出世を目指す人も、豊臣秀吉ゆかりの寺社を巡ってみよう。

 

まずは豊臣秀吉が建立した方広寺へ。方広寺には、豊臣家滅亡の原因ともなった梵鐘が残っている。鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が、家康及び徳川家を冒涜するものとみなされたことから、大阪の役へと移行していく。また方広寺は、秀吉の夢であった京都の大仏が作られた場所。現在は大仏も大仏殿もなくなっているが、方広寺の裏にある公園が大仏殿の跡地として一般に開放されている。太閤さんのことを考えながら一服するのもいいかもしれない。

 

続いて、方広寺の隣にある豊臣秀吉を祀る豊国神社へ。社内のいたるところで、豊臣家の家紋“桐紋”や秀吉の馬印“ひょうたん”を見ることができる。飾り金具や絵馬もチェックしておきたい。社内を堪能したら宝物館へ。豊臣秀吉ゆかりの品々のほか、某鑑定番組で7000万円の価値が認められたという秀吉最後の歯も展示されている。

次に、蓮華王院(三十三間堂)へ。ここでは豊臣秀吉が寄進した「太閤塀」を見たい。境内南端にある、南大門と豊臣秀吉が寄進した桃山時代に作られた築地塀には、桃山文化の影響が残っている。瓦に刻まれた豊臣家の家紋にも注目。

 

智積院も太閤さんの足跡巡りには欠かせないスポットだ。豊臣秀吉の愛妾・淀殿が生んだ鶴松の菩提を弔うために建立されたのが、智積院の前身の祥雲禅寺。絢爛豪華に作られた寺は「都一番」と評された。後に、秀吉が紀州攻めをした際焼き払った根来寺の玄宥僧正に譲られ、智積院と名前を変えたが、意匠や有名な障壁画、利休好みの庭など、秀吉の作った寺という痕跡はそこかしこに見られる。

 

江戸時代には、豊臣秀吉を祀ることは禁止されていた。当時、太閤さんを隠れて崇拝した人々が集ったのが、新日吉神宮の境内にある「樹下社(このもとのやしろ)」だ。「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」とも呼ばれる社は、かつて新日吉神宮が豊国廟社の跡地に建っていたこと、樹下社の「樹下」と木下藤吉郎の音、さらには新日吉神宮の神の使いが「猿」であることなど、複数の理由で秀吉信仰をする人々が訪れた聖地だった。

 

東福寺にも豊臣秀吉の足跡がある。三門に建てられた四角い支柱は、地震が起こったときに豊臣秀吉が修理させたもの。伏見城も同時に被害を受けたため修理用の材木が足りず、丸く削る余裕もないままの四角い柱が建っている。

 

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新日吉神宮蓮華王院 三十三間堂智積院東福寺豊国神社| 

 

 

 

日本を代表する“天才”の仕事を味わう

 

美術書や教科書にも掲載されている、高名な芸術家の作品が間近で見られるのも東山の魅力のひとつ。国宝や重要文化財に指定されたものも多い、素晴らしい芸術作品を味わいたい。

 

智積院の収蔵庫で見られるのは、長谷川等伯・久蔵父子が描いたダイナミックな金碧障壁画。「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」などは国宝に指定されている。「桜図」は26歳で夭逝した長谷川久蔵の遺作で、「楓図」は久蔵の死後その悲しみに耐えるなかで長谷川等伯が描いたもの。父子の心の動きも垣間見える。

 

養源院には大画家・俵屋宗達の出世作が飾られている。本堂には俵屋宗達が描いた襖絵「松図十二面」や、白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵があり、すべて重要文化財に指定されている。俵屋宗達は、屏風絵はいくつか残しているが、襖絵は唯一。ほとんど門外不出の杉戸絵と共に、養源院でしか見られない貴重なもの。

 

豊国神社には名人・左甚五郎作だといわれる唐門がある。鯉の彫刻のほか正面上部には「目無し鶴」も見られる。あまりの腕前に、目を入れると鶴が飛んでいってしまうのを懸念してあえて目を入れていないという「目無し鶴」。その名人技が堪能できる。また、養源院にも左甚五郎の作品が。本堂の廊下は左甚五郎作の鴬張廊下。そろりと歩くほど音が出る様子を、実際に歩いて確認しよう。

 

東福寺で見られるのは、堂本印象が描いた龍の墨絵。2mの筆と50cmの細筆を使い、板の上に大胆に描かれた絵は、今にも天井から抜け出してきそうな迫力だ。

 

高名な京の彫刻家・九山新之丞氏の弟子、九山新太郎作の彫刻がたくさん見られる瀧尾神社、京都出身の版画家・木田安彦さんが比叡山千日回峰十万枚護摩の灰をいただいて古木に描いた不動明王の絵が見られる法住寺などにも足を運びたい。

 

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瀧尾神社智積院東福寺豊国神社法住寺養源院

 

 

 

後白河法皇の一大御所としての東山

 

かつて東山の地にあった後白河法皇の院御所「法住寺殿」。

 

多数の御所と寺院が複合した施設。七条大路末(現在の東山七条交差点)を東西の軸とした広大な地域を指す。北側には現在京都国立博物館敷地となっている七条殿の東西両殿、南側には蓮華王院(三十三間堂)と法住寺南殿(現在の法住寺周辺)が存在した。また熊野と日吉の二社が勧請され、新熊野神社と新日吉神宮になった。

 

その後、周囲の寺社仏閣は場所や名称などがさまざまに変わったが、蓮華王院だけは当時と変わらぬ場所・姿を残している。後白河法皇は現在の法住寺の方向から三十三間堂の観音様を拝み、三十三間堂越しに美しい夕日を見たと言われている。 夕刻に法住寺を訪れ、後白河法皇が見たのと同じ景色を楽しんではいかがだろうか。

 

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東山に点在する美しい庭

 

東山には美しい庭が有名な寺が多数存在する。古今の有名な作庭家の手がけた庭も多く、それぞれ個性的な姿を見せてくれる。美しい庭の緑を眺めながらほっこり落ち着くのも良し、その趣向や作意に想いを馳せるのも良し。何時間でも眺めていたくなる名庭の数々だ。

 

養源院の庭は、四季折々の木々によって季節ごとの色に染め分けられている。作庭は、父親が浅井家・豊臣家に仕えた小堀遠州守政一。「都林泉名勝図会」にも紹介され、以前は“遠州好み”の茶室があったことが分っている。春には、本堂前にこぼれんばかりの紅八重枝垂桜が咲き。夏は鮮やかな百日紅、秋は紅葉、冬は、白・紅・薄紅色の山茶花が賑わいを添えるほか、伏見城から移された秀吉お手植えの山桃の木が400年を経て、雄大な姿で山内を見守る。

 

東山随一と名高い智積院の庭は「利休好みの庭」と伝えられ、山は中国江西省にある名山「廬山」、池は「長江」をモデルにしている。数多く配された景石とサツキの刈込みが特徴で、縁先には立派な一文字型手水鉢も見られる。築山の前面には池があるが、池が大書院の下にまで入り込むように造られているため、まるで池に浮いているかのような感覚が味わえる。大書院には長谷川等伯・久蔵父子が描いた金碧障壁画の写しが飾られ、極彩色の美しい姿を見せてくれる。前面の庭、背面の金碧障壁画、両方が同時に楽しめる贅沢な場所だ。

 

東福寺の方丈を取り巻く4つの庭園は近代の造園家・重森三玲の作庭。趣きが違う「八相の庭」と命名された枯山水庭園を静かに眺めるのも楽しみのひとつ。正面にあたる南庭は四島に見立てた巨石と、砂紋による荒海、そして西方に五山を築山として神仙境を表している。

 

北庭は「市松の庭」、西庭はさつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入った「井田市松の庭」。季節にはさつきの花が咲き色彩の変化も楽しめる。東庭は北斗七星を模して作られた「北斗の庭」。壮大な宇宙観を表現している。

 

また東福寺塔頭・龍吟庵にも、東福寺と同じ重森三玲氏の手がけた庭「龍吟庭」がある。南庭は白砂敷のみで作られた「無の庭」。西庭は龍が海中から黒雲と白雲の間を通って天に昇る姿を石で表現した「龍の庭」。東庭 は赤砂を使った幻想的な「不離の庭」。まったく表情の違う3つの庭園が見られるのは、年に2回の特別公開だけなので要注意。

 

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人気時代劇・時代小説の舞台としての東山

 

ファンの多い時代劇や時代小説。歴史の渦の中にあった東山にも、人気作品の舞台や登場人物に関連するスポットが見られる。

 

吉川英治の『宮本武蔵』で武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として登場するのは、三十三間堂の南側にあたる長い縁側。「京都洛外」だと伝えられる実際の決闘場所とは異なるかもしれないが、100メートル以上の長い廊下を剣豪が走りながら剣を交える姿が想像できるこの舞台。宮本武蔵ファンなら必ずチェックしたい。

 

法住寺は、毎年年末になると必ず放送される『忠臣蔵』ゆかりの寺。赤穂退去後、山科に隠棲していた大石内蔵助は、法住寺の不動明王に討ち入りの成功を祈願したと言われている。寺内には寄木造の「四十七士小木像」が安置されているほか、毎年12月14日の討ち入りの日には「義士会法要」を開催。献茶式や舞妓さんのお点前、討入りそばの接待などが行われている。

 

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徳川家の逆鱗に触れないため 選んだ文字は?

 

方広寺に現存する鐘。鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧・文英清韓の作)が原因で、大阪の役が起こったのは有名だ。この鐘は重要文化財に指定されており、問題の文字も確認できる。

 

徳川家康が怒ったのは、「家」と「康」とを分断し、「豊臣」を君主とするものだったから。細かな字でびっしりと彫られた文章の、ごくたった8文字のために、豊臣家は滅亡したともいえる。

 

養源院に書かれているのは、「家」と「康」とを分断する「国家安康」ではなく、「国土安穏」の文字。「天下泰平国土安穏」の文字が、豊臣家と徳川家にゆかりの深い寺を守っている

 

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豊国神社の読み仮名は「ほうこく」それとも「とよくに」?

 

「ほうこくさん」の名前で親しまれている、豊国神社は「とよくにじんじゃ」。新日吉神宮の境内にある「豊国神社」は「ほうこくじんじゃ」と読む。同じ文字の神社を持つ「豊国神社」と「新日吉神宮」は、参道を途中まで共有している間柄だが、元々は敵対関係にあった。

 

豊臣秀吉を祀った豊国神社を潰した際、徳川家が移築したのが「智積院」と「新日吉神宮」。「智積院」には豊国神社の付属寺院の土地建物が与えられ、さらに豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地も与えられている。「新日吉神宮」は、豊国廟社の跡地に移築された。神社を潰すだけでなく、跡地に別の寺社を置くことで、秀吉信仰を完全排除した。

 

しかし、民間に人気のある太閤さんを慕う人は多く、こっそりと「新日吉神宮」で秀吉を祀っていたという。江戸時代初期には、ひそかに信仰されているだけだったが、江戸中期〜後期になるにつれて大胆になり、ついに社を建てるまでになったとの話もある。

 

太閤さんゆかりの地を巡るときには、オモテとウラとも言える2つの「豊国神社」参拝が欠かせない。

 

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能楽の流派「観世流」はじまりの地は?

 

「新日吉神宮」は“演能の始まりの地”ともいわれる。坂本の日吉猿楽から伝わった「翁」の曲を、「観世流」の祖・観阿弥(かんあみ)が上演した地が、かつて新日吉神宮のあった場所(今熊野)だったことから。神社の800年祭でも、大々的に「翁」を演じた。

 

観世流のはじまりは、資料の記述によれば「洛中今熊野」での勧進能で、足利義満に認められたことだという。

東山には「今熊野神社」もあり、こちらも“演能の始まりの地”と主張している。新日吉神宮と今熊野神社はどちらも、後白河上皇が建てた兄弟社ではあるが、どちらが“演能の始まりの地”かは、意見が分かれるところだ。

 

 

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京都の災厄を一身に背負った? 京の守護大仏

 

方広寺にかつて存在した大仏。現存していれば「京都の大仏」として、有名な観光名所になったかもれない。なぜか自然災害に何度も巻き込まれ、何度も壊れてしまった大仏の運命とは?

 

大仏を作ったのは豊臣秀吉。天正14年(1586年)「奈良・東大寺より大きな大仏を」と造営を開始。文禄4年(1595年)に木製で金漆塗り、東大寺よりも大きな約19mの大仏がほぼ完成した。大仏や大仏殿をつくるのに使う釘は、「刀狩」で没収した武器が再利用されている。慶長元年(1596年)、地震により開眼供養直前の大仏は倒壊してしまい、2年後には秀吉も死去してしまった。

 

次に大仏造営を目指したのは秀吉の息子、豊臣秀頼。父の遺志を継ぎ、木製ではなく銅製の大仏をつくり始めた。しかし慶長7年(1602年)、鋳物師のミスで仏像が溶けて出火し、大仏殿は炎上してしまう。

 

懲りずに、慶長13年(1608年)には3度目の大仏造営にチャンレンジし、4年後には大仏殿と銅製の大仏が完成。しかし、寛文2年(1662年)の地震でまたも壊れてしまう。既に豊臣家が滅亡していたこともあり、大仏は木造で造り直されることになった。壊れた大仏に使われていた銅は、通貨「寛永通宝」の鋳造に用いられたといわれる。当時は通貨が足りなくて困っており、大仏は形を変えて国家のために役立ったことになる。

 

その後、木製の大仏は120年ほど京都の街を見守り続けていたが、寛政10年(1798年)の落雷で、本堂・楼門が焼け、木造の大仏もすべて灰になってしまった。天保年間(1830年〜1843年)には、愛知県の人々が大仏の肩より上部分を造って寄進した。しかし、昭和48年(1973年)の火災でまたも焼失している。

 

何度も地震で壊れ、家事で消失した京の大仏だが、「大仏さんが身代わりになってくれた」「京都の災厄を一身に受けた」と、京の人々は噂し、愛し続けていたという。

 

現在は大仏や大仏殿は実在していない。今見られるのは2000年の発掘調査で見つかった大仏殿の跡地。跡地は公園として公開され、自由に憩うことができる。また地名には「大仏」が残っており、「東山警察署大仏前交番」などはその名残である。

 

実は東山にはもう一体、「京の大仏」が存在した。かつて東福寺の本尊でもあった大仏は高さ15mほどの坐像で、奈良の大仏を意識して作られたという。この大仏も明治14年の火事で焼けてしまい、現存するのは2mほどの大きさの左手のみ。巨大な大仏の片手は本堂に安置されており、3月14日〜16日の3日間に限り見ることができる。

 

 

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江戸時代のトレンドはキリスト教にあった?

 

養源院には古田織部が贈ったとされる「十文字形手水鉢」が存在する。

 

十文字とはすなわち「十字架(クロス)」のこと。徳川家の寺にキリスト教関連のものがあるのは不思議だが、養源院の女性たちは細川ガラシャとも仲がよく、女性の間ではおしゃれ感覚でキリスト教や南蛮趣味が生き残っていた。また、この寺に置いておくと安全だと、キリシタン大名たちの隠れ家になっていたとの話もある。

 

 

 

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